アイデンティティという言葉を聞いたことがある人は多いと思いますが、自分とは何か?
このテーマについて私は30年間以上考え続けている一人です。
日本語では自分の存在意義などと称する人もいるようです。
私も、アイデンティティの解釈は自分自身の存在意義と考えています。
存在している理由と捉えても良いかもしれません。
目次
皆さんは、「あなたは一体誰ですか?」と言う問いに対して何と答えますか?
私も含めて、この問いに対しての一般的な答えを想定してみると、まずは自分の名前や肩書きなどが自分とは誰であるかの答えとなる可能性は非常に高いのでは無いかと思います。

あなたは誰?
「私は、〇〇〇〇と言う名前です。」
では、名前が変わったら、私では無いのか?そんなことはありませんよね?
例えば結婚して苗字が変わっても自分自身に変わりはありませんね?
例え養子縁組で苗字が変わろうと、私であることに変わりは無いでしょう?
芸能人が姓名を変えることもありますが、名前が変わってもその人はその人ですね?
消去法で考えると、じゃぁ名前というのは本当の自分ではなくて、表面上の呼称に過ぎないという結論でしょうか?
私というのは名前ではなかった・・・
次に、肩書きです。
「私は〇〇〇〇会社の社長です。」
私は〇〇〇〇という会社の専務取締役員です、部長です、係長です、社員です。
などなど仕事関係の肩書きが自分自身であるという答えです。
名刺交換など社会では常識的なアイデンティティになると思いますが、果たして本当の自分自身なのでしょうか?
もしかしてその肩書きの前や後ろがあって、時間的な経過の中の一過性のものが肩書きの正体では無いでしょうか?
これも非常に一般的な常識でもあるかと思いますが、突然リストラされて、肩書きが無くなったら?
私では無いのか?
コロナウィルス被害で会社が倒産したら?
社長じゃなくなったら?
肩書きが消えたら自分では無いとは思いませんよね?
では、肩書きも自分自身では無かった・・・
肩書きの中には学歴も含まれそうですね。
次の答えとして、容姿があると思います。
顔認証など、今はAIが進んで、その人かどうかは顔で判断できるという考えです。
整形手術が一般的になっている隣国などあるように、顔というのは果たして私自身と言えるでしょうか?
ましてや髪型が自分だと言えますか?
このサイトのトップページにも抗がん治療で髪が全て抜け落ちた女性達がたくさん出てきますが、髪が自分では無いことが明らかですよね?
顔は本当の自分自身では無かった・・・という結論です。
容姿では、身長や体重もあるでしょう。
あるいは指紋認証なども自分自身を証明する方法としてあるかも知れません。
身長何センチの体重何キロ、それが私です。
本当ですか?
それが自分自身と言えるでしょうか?
身長もある程度の年齢になると止まりますが、止まるだけではありません、高齢化が進めば縮みます。
私の母は現在90歳になりますが、昔は150センチ程度あったそうですが、今は140数センチ程度まで小さくなってしまいました。
先日も、とある障害を持った青年の髪を切ってきましたが、その青年は17歳の時に事故で半身不随になったそうです。
それ以来車椅子の生活になってしまいました。
普段が車椅子なので、身長という言葉すら当てはまりません。
身長や体重は常に変化するものです。
その中には、今話したように、高齢化や事故も含まれます。
結局は、顔も身長も体重も自分自身では無かった・・・
ここまで来るとどうでしょうか?
じゃぁ何が自分自身と言えるのでしょうか?
上記したものは、全て目に見えるもので、視認性のあるものです。
見えるものが全て移ろい行くもので、固定的な自分を証明しえる決定的なものでは無いとしたら、いよいよ自分とは何か?
自分の存在意義とは何かがわからなくなってしまいますね?
この問いに答えた哲学者デカルトはフランス語の「方法序説」の命題としてこう言っています。
私という存在は、「これが私である」という「思い」それこそが実体である
先ほどから検証している、私という存在が全て見えるもので証明されないワケなので、逆説的に考えると、私という存在は実は見えない何かであるという結論になってしまいます。
目に見えるものが姿形として変わり果てたとしても、「私」という思いは消えない。
「私」という存在は、「私」と思う「思い」が有る限り続いてていくことになります。
ですから私自身という存在は、体が不自由になったり、体の一部が失われたとしても、老いて変わり果てたとしても、その「思い」こそが実体で変わらない存在としある限り健在なワケです。
そして「思い」が自分自身であるならば、今あなたはどんな「思い」で生きているでしょうか?
他の人のことや社会のことなど様々な情報群の中で、自分の「思い」を見失っていないでしょうか?
時々問うてみて欲しいのです。
その考えや思いはどこから来たのか?誰から来たのか?
どこかのメディアで聞いたことなのか?
それともその情報について検証してみて、本当に自分自身がそう思うからなのか?
環境や他人に対しても同様に、自問自答してみて下さい。
あの人は・・・という「思い」があの人ではなくて、その人をどう考えているのか?という自分の「思い」であることもあります。
「立ち向かう人の心は鏡なり」
嫌いと思っていると、相手もなぜか嫌ってくる。
そんな経験ありませんか?
逆もあります。
仲良くしたいと思っていると仲良くなれることがあります。
まとめ
今日のお話はいかがでしたか?
かなり抽象的なことばかりだったので、わからない人も多かったかもしれません。
逆に、そうか!「思い」が自分自身だとしたら、「思い」を自由に変えることで自分も変われるかもしれない!と気がついた方もいるかもしれません。
他人のことは自分の思うように自由に変えられませんが、自分自身のことについては「思い」や「物事の捉え方」「考え方」は100%自由に変えられます。
つまりこの世の中で自由に変えられるものは自分自身の「思い」であるわけです。
しかし、長年の思考パターンや考え方の習慣はそう簡単に変わりませんが、少なくとも今から変えようと思えば確実に少しづつ変わっていきます。
その決意が明日も、明後日も、1年後も、10年後も変わらなければ、自分自身の「思い」は着実に自分の思い通りに近づいていくでしょう。

自己中心的
私は美容師になりたてのころは、自分の技術にしか興味がありませんでした。
デザインにしか興味がなく、お客様という人には興味が無かった時代がありました。
そのころは目に見える物にしか興味が無かったので、パーマ液やカラー材、ロットやカット技術など関心領域が狭く、人には全く興味がありませんでした。
自分のことしか考えていなかったのです。
そんな時代には、当然ですが指名も伸び悩み、売り上げも上がりませんでした。
そんな時代に、今から30年ほど前、フランスのパリ市内で美容師をしていた頃、日本にいたその当時の恋人から一冊の本が送られてきました。
そのことがきっかけで、人は「思い」であることに気がつきました。
それからは、人の心にとても関心が持てるようになりました。
私の関心ごとは、物から人へとシフトしました。
人の心とは何か?
そのことが自分の心も含めて大きな関心ごとに変わっていったのです。
ヘアデザインの奥にはお客様の心が必ずあります。
なぜ切りたいのか?
どの部分が嫌なのか?
どの部分は気に入っているのか?
前回の美容室では何を感じたのか?
自分自身に対して今どう言う「思い」であるのか?
etc・・・
見えない心が見える形でヘアデザインとして現れています。
今、見えないものも、1年、10年と考え続けていると見えるようになって来ることがあります。
あるいは感じるようになるという方が正しいかも知れないですが、人の心が少しづつ理解できるようになってきます。
それから美容師としての指名も爆発的に伸び、売り上げも40万人程度の街で3本の指に入るほど飛躍的に良くなりました。
もちろん技術や毛髪理論は大事です。
当然お客様のヘアデザインについて興味関心を持つことと、同じくらいカットやパーマ、カラーの専門知識及び技術は大切なことは言うまでもありません。
しかし、本当に大切なのは、カットが上手くなりたいとか、売り上げを伸ばしたいとか言う手段のことではなくて、何が目的なのか?と言うことだと思います。
目的とは人の心を理解し、その人が今よりも幸せを感じられるようなお手伝いをしたいと「思う」ことでは無いかと思います。
それが自分が生きている意味だし、多くの方々との関わりを通して自分にできることなのでは無いかと思います。